Real world へようこそ。こちらは最初の投稿です。
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奇跡講座(A Course in Miracles (ACIM))では、「real world」という言葉が登場します。
これは翻訳では、「実相世界」と訳されている元の英語です。
個人的にはこの言葉は、ラカンに倣って「現実界」とか、あるいは普通に「実際の世界」「本当の世界」というように訳した方がいいと感じていますが、それは別サイトで論じています。
ここでは、実相世界からの「眺め」に関して書いてみようと思っています。
ラカンの言う「現実界」と「real world」が何らかの共通点があるという前提で申し上げると、実相世界は、通常の意識状態からは、「悟っているのか狂っているのか、わからない」という感じになるのかもしれません。
つまり、日本語でいうと「あの人はとうとういかれてしまった」という感じなのかもです。
「いかれる」というのは「故障している」、つまり機能不全であるという意味と、「彼岸に到達している」ということを尊敬した意味での「行かれる」と、その両方の意味があるのかもしれません。
つまり、この一見すると相容れないと見える両者の意味に共通しているのは、「自分(たち)の側からは手の届かない状態」ということですね。
ま、前置きはこのぐらいにしておきますが、実相世界の「眺め」は、従来の世界の「眺め」とは、根本的に異質です。
どのぐらい異なっているかの一例をあげてみましょう。
モーセの十戒だけではなく、世界中にはいろいろな戒律がありますが、基本的なところは意外に共通しているというのもまた事実です。
例えばですが、「殺すな」というものは、ほぼどの戒律にもみられます。
で、こうしたことはすべて、「禁止令」つまり「~するな」「~してはいけない」というニュアンスで捉えられてきました。
ですから例えば、神はそのように人にいろいろなことを禁じて、そして、神の「お眼鏡」にかなった人だけを「合格」として救い、「不合格」だった人は「失格」として滅ぼす、みたいな発想もありますね。
これ、実は違うんです、ということなわけですよ。
これは禁止しているのではなく、神の「気遣い(ケア)」だったりするわけです。
「いかなる意味でも何一つ殺さずにいよう」と自ら自発的に決意することにより、道中、どんな紆余曲折があろうとも、いずれ必ず、心の自由な境地に必ず到達する、ということが約束される(保証される)からです。
ですからこれは、禁止しているのではなく「ケアリング」だというわけです。
あるいは「ゴールにフォーカスする」という感じなのかもしれません。
ここでいう「ゴール」というのは、例えばですが「自由」とか「平安」とか「解放」とか「喜び」とかですね。
ですからこうしたことは、ま、実に「宗教臭い」話なわけですよ(笑)。
だからかどうか、「自由」とか「平安」とかにコミットしている人も、なぜか「神」についてだけは口を閉ざします。
「神」ということについて言及した途端、「宗教か」となる、というわけですね。
この「宗教か」というツッコミは、かつて「欧米か」という一発芸のネタがありましたが、そういう感じで受け取ってもらえれば幸いです。
ですから、まずは「神」という言葉にべっとりとまとわりついている「宗教色」を「脱色」することから始めなければならない、というぐらい、「神」という言葉には文字通り「手垢が付きすぎて」いるわけですが、こうしたことは例えば「愛」とかでも事情は似通っています。
(念のために付記すると、ここでいう「宗教」というのは、「危ないカルト」としての宗教という意味であり、「religion」としての宗教のことではありませんが、「religion」本来の意味に立ち返ってみると、これがまたいろいろとアレなわけです)
ですから、こうしたことを綿密に振り返ってみると、人々がほとんど「生理的に受け付けない」というレベルまで毛嫌いしているのは、実のところ神そのものではなく、「神」にまつわる諸々だった、ということもまた、わかってきます。
で、「「神」にまつわる諸々」は神そのものではない、というのはもちろんですが、そもそも神の属性ですらないため、それは毛嫌いして当然なわけですよ。
つまり、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というのは実は、「袈裟が憎いのは坊主が憎いからなのだろう」という無意識の推論の逆性だった、つまり無意識の中で行われている推論の方向性を逆転させた認識だった、みたいなことだったわけですよ。
これは、「結果から原因を推測する」というとき、そのようにして遡及的にたどり着いた原因は、どうやら1つとは限らないようだから、なんですね。
これは、「原因から結果へ」という流れの「力強さ」にめげてしまっているときに起きるようですが、このことは別の記事にします。
いずれにせよ、「袈裟が憎い」というのは現にあるとして、では、果たしてそれは坊主が憎いからなのかどうか、というところなわけですね。
ま、もちろんですが、実際にはその人そのものを憎悪しているとしか思えないというのもまた事実です。
つまり、「袈裟まで憎い」とき、坊主が憎く感じているのは、そりゃあるでしょう。
で、その時に自分が「にっくき坊主」として感じているものは、果たしてそもそも何なのか、なわけですよ。
それは坊主の「人格」でしょうか。
だとしたら、自分が憎んでいるのは坊主の「人格」であり、それは、その坊主そのもののことではありませんね。
つまり、もし、その坊主が、何か自分が気に入るような人格の持ち主だったとしたら、自分はその坊主のことをとても好んでいたかもしれないとしたら、それは坊主その人ではなく、その坊主の人格を憎んでいるのだ、ということになります。
要するに、坊主の人格もまた、広い意味では「袈裟」だった、ということですが、ややこしくなるのでここでは「人格」のままにしておきますと、先の言い回しは以下のようなことになります。
坊主の人格が憎けりゃ袈裟まで憎い
人格もまた広い意味では「袈裟」だった、というのはいわば、人格というのは「心の袈裟」である、ということですから、これは以下のように言い換えることができます。
坊主の「心の袈裟」が憎けりゃ衣類の袈裟まで憎い
ま、うすうす気が付いてきたかもですが、この言い回しでいう「袈裟」とは元々、人格とか人柄とか思想信条のような、本人が「身にまとっている」ものとしての、いわば「メタレベルの袈裟」のことを指していたのであり、物理的な衣類としての袈裟のことではなかった、というわけですよ。
ですがこのように、あえてこの世界の次元に落とし込み、表現をコンパクト化することによって、言い回しとして成立している、というわけですね。
ですがこれ、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というシチュエーション自体が、現代ではもうあまりリアリティがありませんから、この言い回しはもう、事実上の「死語」なのかもです。
ですからこれ、奇跡講座のワークブックの主題概念風に言い換えた方が、むしろ通用するのかもです。
私がある人のことを憎むのは、その人自身が憎いからではない。
私がある人のことを憎むのは、その人にまつわる「何か」を憎んでいる。
このような、いわば「双子レッスン」は、例えばですがレッスン 5,6 とか、レッスン 20,21 とかに見られますが、これがわざわざ2つに分割してあるのは、この2つの段階は一足飛びに行うことはできないからなのでしょう。
ま、脱線の度が過ぎましたが、例えばこのように、結果から原因を推測するとき、それはしばしば、間違った前提にたどり着くことがあるため、要注意なんですね。
ですから、神にまつわるいろいろな「都市伝説」から神というものを類推するとき、それは往々にして「実在しない神」を神としてしまうことがあり得ます。
もちろんこうしたことは無意識の中でのことであり、人が自覚的にわざわざこんな「変なこと」をしている、ということではありませんよ。
で、まあ、例えばこうした「神にまつわる諸事情」のために、現状認識がなんだかとてつもなくややこしいことになっているようだ、ということが、ここで言いたかったことです。
で、個人的には、「神」という言葉自体は別に何でもいいと思っています。
例えばですが、「無限」でも「超越」でも、実質的には同じことですし、「超越」という言葉は気に入らないのであれば、何なら「内在」でも別に全く構わないわけです。
こうしたことはすべて、「月を指す指」ですから、指自体ではなくその指が指しているものの方が大事です。
ただ、例えばですが、「常に月と反対方向を指している指」なんてのは、その指が実は何を指しているのかが非常にわかりにくくなりますから、そのまま指している方が分かりやすいのは事実です。
さて、スピノザの『エチカ』では、「神は、あらゆるものの内在的原因であって超越的原因ではない」(第1部定理18)と書かれていますが、神を「内在神」として捉えるか「超越者」として捉えるかは、結局のところ自分の立ち位置の違いによるのであり、そのため、神の捉え方に違いが生じているかのようなことになっている、というだけのようにも感じます。
私が参照している中公バックスの註によると、「超越的原因」とは、自らの外部に結果を産み出す原因のことだそうなので、これはその原因を他者側から捉えた場合の捉え方になります。
その同じ原因を自己側において捉えたとき、これは「内在的原因」として感じられますから、両者の違いは単に自分の立ち位置の違いによっているというわけです。
「他者側、自己側」というのは、私が独自に用いている用語ですが、これについてはいずれ書く予定です。
さて、しょっぱなからぶっ飛びトンデモの連発ですが、この記事は「試供品」の意味も兼ねて書いてみました。
ではではです。