私の表現はどうも異なってしまうようだ。
例えば、スピではよく、「自分は時空の外にいて、そこから時空の中を覗き込んでいる」というが、その時点ですでに私はつまずいてしまう。
私の感覚からは、「いや、ちゃんと時空の中を生きないと」という感じになる。
そもそも、「時空の中」とはどういうことなのか、そして、「自分は時空の中にいない」とはどういうことなのかを理系的に考えたら、こんなことはとても簡単に言えるものではない、ということがわかりそうなものだが。
また、「自分は時空の中にいない」と主張する人がする例え話は、どう見ても、時空の中にいるという観点から表現されているとしか思えないことが多いが、これでは、ある種の否認をすることにしかならないのではないか、という懸念を、私は自分の中から拭い去ることができずにいる。
もし、「どう見ても自分は時空の中にいるとしか思えない」という、そのシンプルな実感を無視して、「自分は時空の中にいない」という言葉を何かの「お題目」のように唱え続けるとしたら、それは単に、そうした言葉に何らかの権威や絶対性を持たせることによって、自分のシンプルな実感を意識の表層から抹殺しようとするという、ある種の自己催眠ないしは自己洗脳をするようなことになりかねない。
あるいはせいぜい、特殊なマントラを唱え続けることで心が穏やかになるという、言わば「現代版念仏」のようなものであろう。
そういうのは言葉の真の意味で「子どもだまし」、つまりインナーチャイルドを「眠らせる」ことによって仮設住宅的な平安を得る試みである。
「そこで、私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
私のこれらの言葉を聞いても行わない者は皆、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に似ている。
雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
マタイによる福音書、7:24-27
ここでの「岩」とは、神の口から出る言葉(cf. マタイによる福音書、4:4)のことであり、「砂」とは、人のおしゃべりのこととして捉えれば、イエスが言おうとしたことは概ねわかるかもしれない。
このことに関しては奇跡講座でも、「基盤」という言葉で言及している。
つまり、「基盤」≒「岩」、である。
日本語でも、「盤石な」という表現がある。
「盤石」の意味と使い方や例文!「盤石な体制」とは?(語源由来・類義語・対義語) – 二字熟語の百科事典 proverb-encyclopedia.com
さて、先の箇所で「念仏」に関して一見批判的に表現されていることに、おそらく人によっては抵抗を感じるかと思うが、この、念仏の有する限界に関しては、歎異抄で親鸞自身が明らかにしているので、ここに何事かを付け加えるものではない。
しかも私は別に、「だから念仏なんて唱えるだけ無駄」だとかは全く思っていない。
ここで私が申し上げたことは、単に、「抗不安薬は「魔法の薬」ではない」ということ、つまり、「薬はその効果を理解して、効果が十分に得られるよう、用法を守って正しく服用しましょう」ということでしかない。
しかしその反面、念仏にせよ抗不安薬にせよ、言葉の正しい意味で、あれらは文字通り「魔法の薬」である。
これは奇跡講座で「魔術」と呼ばれているもののことだが、奇跡講座で「魔術」と訳されている元の言葉は「magic」なので、これは「魔法」「手品」と訳すとしっくり来る場合もあるが、この場合の「念仏や抗不安薬は文字通り「魔法の薬」だ」とは、この「魔術」という意味、つまり「子どもだまし」という意味でのことである。
この世界を生きていくためには、時には有無を言わせず、内なる子どもを「黙らせる」必要がある場合もあるが、そうした切羽詰まった状況においては、こうした「魔術」には一定の有用性は大いにある。
ただし、それは嘘のように問題を解決してくれるものではない、ということであり、ここをわきまえることが「薬はその効能を守って正しく服用しましょう」ということだろう。
これはつまり、「魔術は魔術である」ということである。
さて、先に、「念仏や抗不安薬は「魔法の薬」ではない」と言ったが、その次に、「念仏や抗不安薬は「魔法の薬」である」と言った。
この2つの表現は、言葉上の意味は反対なのに、実質的に同じことを狙っている、ということにお気づきであろうか。
前者の「念仏や抗不安薬は「魔法の薬」ではない」という表現は、こうしたことに対する「過剰な期待」に関して、「念仏や抗不安薬には、期待する価値はない、なぜならばそれらは「魔法の薬」ではないのだから」というように主張している。
後者の「念仏や抗不安薬は「魔法の薬」である」という表現は、こうしたことに対する「過剰な期待」に関して、「念仏や抗不安薬には、期待する価値はない、なぜならばそれらは「魔法の薬」なのだから」というように主張している。
さて、つまり、どうやら、言葉の意味には大きく分けて二種類あるようである。
前者の場合、つまり「念仏や抗不安薬は「魔法の薬」ではない」という時には、「この世のどこかにきっと「魔法の薬」はあるんだけど、しかし念仏や抗不安薬は、どうやらそういう「魔法の薬」ではないようだ」という前提がある、つまり、「魔法の薬」という言葉はこの場合、何か「いい」意味として作用している。
後者の場合、つまり「念仏や抗不安薬は「魔法の薬」である」という時には、「これらには実質的な効果は何もない、なぜならばこれらは魔法だからである」ということである、つまり、「魔法の薬」という言葉はこの場合、それらの本質をありのままに表現したものである。
しかし、前者の感覚をベースにして後者の表現を捉えると、「魔法の薬」という言葉はあたかも何か「よからぬ」意味として用いられているように感じられる。
そしてどうやら、前者は従来の世界での言語感覚であり、後者は実相世界での言語感覚であるようだ。
このように、自分がどちらの世界にいるかによって、言語感覚は根本的に異なるため、あたかも、言葉には二つの用法があるかのようなことになっているようだ。